うるま市与那城屋慶名青年会
116年の伝統

平成8年(1996年)、環境庁の主催する「日本の音風景百選」に沖縄のエイサーで
唯一認定を受けたすばらしい芸能です。


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はじめに
エイサーは伝統芸能か?と問われれば、そうであり、そうではない…。屋慶名エイサーに限ってはその歴史の古さから見ても伝統芸能と言われますが、青年達はそれぞれの時代に観客を意識して見せるエイサーに徹したことが、今では近代エイサーの本流と言われるようになった。
屋慶名エイサーは今年で継承116年を迎えます。衣装の変遷はその時代によりありましたが、独特の踊りである腰落しとパーランクーの返しは伝統として受け継がれています。

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構 成
開始前の踊り
ハタムチャー(旗持ち)1人

屋慶名エイサーではエイサー開始前にハントーカタミヤーの踊りがあります(右の写真)。その後で入場演舞が行なわれます。

最初の入場はハタムチャー(旗持ち)です。
威風堂々りっぱな旗です、旗頭には飾り付けがあり青年会のシンボルです。観客は旗を見てどこのエイサーかを判断することができます。

左はエイサー隊入場です。


ハントーカタミヤー(サキカタミヤー)2人




道ジュネーはその年にめでたいことのあった家庭(出産・新築・事業開始など)を訪問し、カリー(良い出来事)をつけるために行います。
ハントゥカタミヤーはチョンダラーですが、ご訪問の口上をご主人の前で述べます。2人で担ぐ酒甕は青年会への御礼のお酒を入れるためです。これは伝統にもとづく儀礼で、実際は青年会への寄付として金銭に変っています。

ハントゥカタミヤーは、家のご主人の承諾が得られるとエイサーシンカを招きいれる踊りを始めます。ダイナミックな踊りを見せながら、エイサー隊をつぎつぎ屋敷へ招きいれエイサーの演舞が行われます。

エイサーにはこのハントゥーカタミヤーの存在が重要です。自分達の存在の代償(酒をいただく)を受ける代わりに、踊りと歌で家内安全・商売繁盛・子孫繁栄・不老長寿・孝の大切さを授けます。

道じゅねーのエイサーこそ本来のエイサーです。青年たちはその日だけは間違いなく人を超えた存在になっています。一心不乱、日常の動きではありえない何か神がかり的な迫力を感じます。



開始前の踊り「東西南北(センスル節)」(訳はじんじんの感性によるものです)
演舞開始前の酒カタミヤーの踊りです。

  東西南北 ちちみそり
  老てぃん若さん ちちみそりー
  ちゆやくまぬ 殿内んかい
  我々屋慶名青年団
  むるとぅむ寄しりてい ちゃあびたん
  皆さんよろしく頼みます

  我ったーむるとぅむ ゆーちきよー
  かねて言いちきたるぐぅとぅに
  てぃーちん忘しゆな むる知りよー
  (オー!)※
  習てぃから 我ったーが
  忘しゆるさくい
  シタリガセンスル ヨーセンスル

東西南北の皆さん 聞いてください
年寄りも若者も聞いてください
今日はここの お屋敷へ
我々屋慶名(やけな)青年団が
全員揃って参りました
皆さんよろしく頼みます

我々全員 よく聞けよ
かねて教えた通り
何一つ間違えるな 全部覚えろ
※エイサー隊の気合のかけ声です
(技を)習った 我々が
間違えるはずがない
(囃子)
入場「七月エイサー」
旗持ち、酒カタミヤー、大太鼓、パーランク、ジーヌーと入場します。
  七月二才達や 酒たぼり
  みぐらち みぐらち 遊びさびら
  サーエイサー 七月エイサー
  スリサーサー スリ

  五ちぬ年うち 我親はなり
  七ちになたぐとぅ うびんじゃち
  サーエイサー 七月エイサー
  スリサーサー スリ


七月の青年たちには 酒をあげなさい
村々を巡って 遊んであげよう
(囃子)


五つの年に 親と離れ
七つになって 思い出し
(囃子)
中踊り「十六日」
中盤でのサキカタミヤーの踊りがあります。
 ちゅーや 七月ぬ十六日 しっくぬ日
 うてぃん わかさん 揃てぃ めんそーちー
 くとし ゆがふ うにーげーさびら
 七月あしびや あんうっさんびーがな
 へいへい にーせーたー へい 
 揃てぃめーぬ しんかぬちゃに
 遊び でぃきらち 踊てぃ うみかきらな
 とうとう ちばてぃんでぃ 
 とうとう でぃきらちんでぃ
 七月遊びや あんうっさいびーがらやー


今日は 七月十六日 節句の日
老いも 若きも 揃って きていただいて
今年の 幸せ お願いします
七月遊びは こんなに 嬉しいものか
ヘイヘイ 青年達よ ヘイ 
揃っている皆さんの前で 
遊び 最高に 踊りを見せてあげよう
さー 頑張ろう 
さー 最高の踊りを見せてあげよう
七月遊びは こんなに おもしろいものだよ
退場「二合ぐゎ節」
入場の逆順で退場していきます。
  くまぬはんしーめーや う肝ゆたさぬ
  かみてぃ巡やびら
  サウエンサウエン サンサウエン
  ピーラルラー ラーラルラーラー

  二合二合二合 一升二合 はい二才たー
  作るむじゅくい 満作そーしが ちっとちばれー
  でぃきわる うむさる

  一合がうたびみせーら 二合やうたびみそーれー
  かみてぃみぐやびら

  七月あしびや あんしんうむさや
  でぃあんせー 我ったーん うどぅて あしばな
  あしびぬ ちゅらさや にんじゅぬすなわい
ここの お祖母さんは 心やさしく
祀って巡りたい
(囃子)
笛の擬音

二合だぞ二合 一升と二合 ほら青年たちよ
農作物は満作だ(酒カメが一杯だ)もうひと頑張り
よく出来たからこそ (我々は)嬉しい!

一合をくださるのか 二合をください
かついで巡りましょう

七月の遊びは こんなに楽しいよ
それなら 我々も 踊り遊ぼう
遊びが楽しいのは 人数が多いからさ




チョンダラー(ナカワチ) 20数名


チョンダラーの役割はさまざまです。
交通整理・乱れた衣装直し・汗ふき・演舞進行・場を盛り上げるなどなど…。一見脇役を演じています。

踊り手たちの見事な息詰まる演技の中盤にコッケイ踊りで観客の緊張を解きます。屋慶名エイサーではチョンダラーだけの演技が馬山川(バジャンガー)の曲でおこなわれます。みごとなオーバーアクションは計算された演技で、それもそのはず彼らはエイサーを知り尽くしているんですね。


大太鼓 2人

隊列の先頭を勤めます。エイサー隊の指揮者でもあり、威厳に満ちた大太鼓の踊りも必見です。衣装は大太鼓だけが陣羽織です。大太鼓は道ジュネーには参加しません。

パーランクー(小太鼓)20数名

エイサー隊の本体です。屋慶名エイサーといえばこの衣装とこの踊りです。一糸乱れぬ隊形と腰を落とし膝を大きく横に上げる独特な踊り、ちいさなパーランクーだからこそできる華麗な太鼓さばき。
広場での演舞でもしも正面から隊列を見ることができるなら、きっとムカデを想像するくらいの見事な隊形を見れます。
小さなパーランクーとバチが踊りの中で重要な役割をはたします。決して打ち鳴らすだけの勇ましい踊りではなく、大きく優雅にエイサーの掛け声とともに踊ります。パーランクーならではの太鼓の返しも屋慶名エイサーの特徴です。
子供たちは近所のお兄ちゃんがまるで別人のように見えてしまいます。そして子供心に「大きくなったら、お兄ちゃんみたいに踊るんだ」というあこがれに変るんですね。


ジーヌー(手踊り)男女20数名

エイサーは太鼓と手踊りの共演です。屋慶名エイサーでは男女が対になって踊ります。エイサーの掛け声はジーヌーが発します。

屋慶名エイサーのジーヌーは踊りの中で「ゼイ(スーダシ)」を使います。これも屋慶名エイサーの特徴で、男女の手踊りは、青年達の晴れ舞台です。


ジカタ(地謡)三線・歌 6人くらい

演目すべてジカタが演奏します。
屋慶名一番の三線の名手と美声の持ち主が選ばれます。エイサーはその地域独特のリズムで踊りますから、他所から奏者を呼んできて演奏させても、パーランクーとの息があいません。屋慶名エイサーを知り尽くしているからこその演奏です。
ジカタの衣装も、決して脇役ではないことを意味しています。


屋慶名エイサーの演舞曲は多彩です。
七月エイサー、与勝海上めぐり、そんばれー、馬山川(バザンガー)、砂辺の浜、月夜の恋、守礼の島、花笠節などです。
ここでは個人的に大好きな「花笠節」を紹介します。

花笠節
 花笠作やい 想顔かくちょてぃ
 梅の匂い ヤーレ
 里とぅ我が仲 忍ばんむんぬん
 我がうてぃちちゅみ

 手紙ぬちゃんてん 御状ぬちゃんてん
 我がうてぃちちゅみ ヤーレ
 枕並びてぃ 言ちちかさんむん
 我がうてぃちちゅみ

 深山ぬ鴬 はち春待ちかに
 朝露しゆさ ヤーレ
 老いも若きも 野原に出じとぅてぃ
 遊ぶ嬉さ

舞踊を彷彿とさせる「花笠節」のパーランクー
(みきさん提供)

花笠節の変遷

花笠節1

この動画は21年前の1985年に開催された第21回青年ふるさとエイサーまつりのオオトリで踊った屋慶名エイサーです。まだ「与那城村」の時代です。

いかにも古い映像で、トラッキングもままならず、四苦八苦しながら何とか取り出すことができました。

さて、屋慶名エイサーの曲目に「花笠節」というのがあります。
屋慶名エイサーの踊りの変遷を見る場合、いちばん特徴があらわれている踊りだと思います。
時代とともに変化していく屋慶名エイサーは自らを「近代エイサー」と呼んでいます。

屋慶名エイサーの場合、昔と違う、だから伝統エイサーではないという意見もあると思いますが、屋慶名エイサーが誕生して116年、そのつど屋慶名エイサーは変化してきました。型を守ることも伝統だと思います。が、よりよい型に進化させていくのも屋慶名エイサーらしい「伝統の近代エイサー」です。
花笠節2

この映像は前述の「花笠節1」からさらに5年を経過した、1990年「屋慶名エイサー生誕100年祭」から抜粋した「花笠節」です。

ここで注目する場面は花笠節の「うむかお かくちょてぃ・・・」の部分でパーランクーを持ち上げ、弧を描くように上体を曲げます。1985年の花笠節では見られない動きがここで見られます。

1985年の踊りではゆるやかに回転するだけですが、パーランクーを持ち上げることにより、さらに踊りにメリハリがついてきています。またこの動作で「花笠ファン」が増えたのも事実です。

踊りに工夫を重ねながら進化していく屋慶名エイサーを今後ともご注目ください
花笠節3

さて、花笠節第3弾は、「花笠節2」の1990年から、10年後の2000年に行われた「屋慶名エイサーの夕べ・バザンガー大会」からの抜粋です。

ここで見る花笠節は、動きが大きくなり、パーランクーははるか頭上、バチは地面にも届くくらいの動きになっています。それは踊りをはるかに目立たせ、ますます花笠ファンを楽しませてくれます。

動きが大きくなった要素には、単に上体を曲げるのではなく、膝も大きく曲げ、バチが地面に届いています。このパーランクーとバチが斜めに直線となったときが一番美しく見えます。

屋慶名エイサーの踊りの変遷は「花笠節」だけにはとどまりません。サキカタミヤーの舞や、ジーヌーの踊り、その他のパーランクーの踊りが年々変化します。
一年や二年では気が付きませんが、このように長いスパンで見ると明らかに変化していることが見てとれます。

さて、この映像から7年後となる今年の「花笠節」どうだろう・・・そこはみなさんが実際に見てください。

屋慶名エイサーの起源と変遷

エイサーの起源については沖縄全体でさえも定かではない。与勝地域では300年、400年前ともいうが実際のところこれも定かではない。「勝連村誌」の中に明治の頃の青年エイサーの様子ともとれる記述があった。おおまかに紹介すると、
17、8才〜20才くらいの青年たちは10数名のグループで三線伴奏がつき三升入りの酒甕を2人でかついで家々から1合の酒を頂き夜を徹して踊り廻ったという。(略)

屋慶名エイサーについては、その起源を明治24年(1890年)旧暦7月としている。村の有志7名により独自のエイサーが生まれたという。
1991年には生誕100年祭が行われ、会場で屋慶名エイサーの創設についてのエピソードが発表されました。
おもな内容を記述すると、
当時の屋慶名村には「エイサー」がなく、那覇や首里などの「念仏おどり」をやる「ニンブチャー」が盆の日になると屋慶名村を訪れ、念仏踊りを披露し、金品・酒などをもらっていた。他シマの人に金品をあげるくらいなら、シマの青年達にあげようと、村民は青年達に「エイサー」をやることを期待し、それに屋慶名の青年達は奮起しみずから「エイサー」を立ち上げたそうです。

その3年後には参加人員も多くなり、屋慶名集落を東西に分けてエイサーが踊られるようになりました。そして昭和10年には勝連村比嘉のエイサーの型が東の部落に取り入れられます。西の部落はそれまでの伝統の型を保持しました。このような状態は昭和12年まで続き、以後、日中戦争や太平洋戦争で中断します。戦後、昭和24年に復活した東西のエイサーは、それぞれの伝統エイサーを行っていましたが、昭和39年に統合されます。パーランクーの型は比嘉の流れを汲む東の型を、手踊りは伝統的な西の型をとりいれました。

現在の屋慶名エイサーは、その絢爛豪華な衣装で有名ですが、屋慶名エイサー生誕百年の記念イベントに復活したかつてのエイサー衣装は白い下着にゆかたに襷という素朴ないでたちでした。また昭和10年に比嘉エイサーが取り入れられるまでは、パーランクーを腰のあたりに置いたままバチを振り下ろす叩き方で、饒辺や平敷屋をほうふつとさせる演舞でした。
衣装の変遷は、詳しい資料がなく紹介できませんが、昭和34年に第4回全島エイサーコンクールで優勝しており、その頃の衣装は現在の衣装に近いが、パーランクーも手踊りの男性と同じ衣装だったような気がする。それでも復活後からかなりの衣装の変更があったと思います。
(写真は百周年記念祭で再現された屋慶名エイサー:生誕100年祭ビデオより)

2008年2月10日追記
なにげに読んでいた「ヤブチ式土器と屋慶名村の誕生」という本に「昭和30年代屋慶名エイサー コンクール出場」とキャプションが添えられている写真があった。
前述の私の記憶の中の屋慶名エイサーが写真としてあったのだ。拝借して掲示する。
屋慶名エイサーは戦後の再スタートから東・西の2チームが存在していて、昭和39年に東西のエイサーが統一される。
そして第4回全島エイサーコンクール(昭和34年)で屋慶名東が優勝する。たぶんにその時の写真ではないかと思うが、決定的ではない。
写真の旗は「○○名東青年団」と読めます。この時代のパーランクーの衣装は白シャツにタスキの斜め掛けで打掛けは着ていませんが、すでに金紗の頭巾を着用しています。
勝連比嘉のエイサーは第1回エイサーコンクールにおいて打掛けを着用していましたが、現在の頭巾ではなくマンサージでした。比嘉エイサーを手本にしていた屋慶名としては、いつの年から現在の衣装になったのか興味があります。そして頭巾は屋慶名が発祥だと言えそうです。



私的雑感:未来へ

1)過去のエイサーコンクールの功罪
 沖縄中の青年エイサーを一同に集めてエイサーの優劣を決めた。それまでエイサーは各集落の門外不出の芸能であって、他のエイサーと優劣を競うものではなかった。
 青年たちの熱き血をかりたてたものは「我らこそ沖縄一」とエイサーを愛する心であった。それが裏目に出たのが「エイサーコンクール」である。落選した青年たちは、なぜ1番ではないのか?理解できない審査結果でした。伝統にのっとれば、地味で滑稽さがめだちます。観客受けするするために衣装や構成、演技曲の見直しがおこなわれ、その後各地のエイサーは「見せる」エイサーへとこぞって変化していったことは言うまでもありません。それは一部伝統を破壊することでもありました。こんにちのエイサーブームに過去の「エイサーコンクール」の存在が与えた影響は大きなものがあります。結果として、エイサーコンクールは地域の若者や県外の人をも魅了する「エイサー」を生み出すことになりました。

※エイサーは本来各集落内で行なわれ、村の守護神への奉納エイサーのあと道じゅねーやその年に変化のあった家庭をたずねて踊ります。
 エイサー祭りなど会場で見るエイサーは、やはりエイサーコンクールの延長で青年達にとっては役目が解かれたあとのエイサーですから、そこは徹底して見せるエイサーへと変ります。

2)郷土愛

 自分の町に「エイサー」がある。それだけで沖縄の人は満足します。しかし青年会の実情をみると「エイサー」を維持することさえ困難な時代です。エイサーの盛んな地域は住民の理解もあり、会員の取得も成り立ちますが、都市化の地域や過疎の地域は会員集めもままなりません。地域住民が「エイサー」を愛するなら、青年会の活動もやりやすいのですが、そうでなければボランティア精神で「エイサー」を継続し、地域住民がエイサーのありがたみを知れば、おのずと地域に「エイサー」が定着すると思います。エイサーは仏教に基づく「ありがたや」(沖縄の場合はカリー)の気持を持つことだと思います。

3)ルーツ
 沖縄本島の中部はエイサーが盛んに行なわれますが、本島南部や北部には近年まで青年会のエイサーがありませんでした。過去には中部地域のエイサーのルーツともいえる存在でしたが、都市化と過疎が進むにつれエイサーが衰退していったと思われます。
屋慶名エイサーも勝連村の比嘉エイサーをとりいれ、今日の型に仕上げました。本島南部地域の青年会は「町おこし」のためにエイサーの復興を考え、屋慶名エイサーをルーツとする青年会が増えてきています。今日ではエイサーは「見せる」エイサーであるとともに沖縄の先祖崇拝に源を発する鎮魂の踊りでもあります。演舞には順序があり、それぞれの踊りに意味があります。それが伝統といわれるゆえんです。屋慶名エイサーをエイサー本来の伝統に踏まえ、屋慶名の型を受け継ぐことはエイサーの本流を継ぐことです。100年以上も守ってきた伝統はそう簡単にくずせるものではありません。構成を省いたり、踊りを簡略化するのも良くないと思います。ルーツを同じとするエイサー同士、切磋琢磨して新しい伝統の歴史を作っていってもらいたいですね。

※一言コメント
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